不眠症
睡眠時間の長さの話ではありません。寝つけない、途中で目が覚める、そして翌日に代償が出る。この三つがそろって初めて使う言葉で、三つめが定義から落ちやすい。「不眠」「睡眠障害」との違いも含めて。
ウェルビーイングの科学
不眠症は三つの部分からできた訴えです。寝つけないこと、眠りが続かないこと、そして翌日に代償が出ること。三つめも定義の一部で、おまけの条項ではありません。短い夜が翌日に何も残さないならそれは不眠症ではなく、そもそも眠る機会が無かった夜も不眠症ではありません。
これは臨床で使われる二つの診断基準に共通する形です。そして中に入っている驚きは、この語が時間の長さを指していないことのほうです。何時間を下回ったら不眠症、という線はありません。ある人を潰す睡眠時間が、別の人には足りているからです。
日本語には三つの語があり、四つめが無い
日本語は英語より有利なところから始まります。入眠障害、中途覚醒、早朝覚醒。 この三語は診察室でも日常会話でも通じ、自分がどれなのかを最初から名指せます。英語の insomnia 一語が飲み込んでいる区別が、日本語では最初から分かれている。
それぞれが指しているもの。入眠障害は眠りが始まらないこと。研究では寝つくまで三十分以上がひとつの目安になっていて、これは適当に決まった線ではありません。リヒシュタインらが二十年分の試験データから量的な区切りを探したとき、おおよそそのあたりで「ただの悪い夜」と臨床的な形の境目が立ちました。中途覚醒は眠りが続かないこと。ここで数えるのは目が覚めた回数ではなく、起きていた時間の合計です。短い覚醒は誰の夜にも入っていて、よく眠れている夜には誰も数えません。早朝覚醒は予定より早く終わって、戻る道が無いこと。
ところが、この三つが便利なぶんだけ、代償を払うところがあります。三語はどれも夜の形しか指していません。 日中の代償を指す語が、この並びに一つも無い。だから日本語の読者は「夜中に二回目が覚める、だから中途覚醒」で自己判定を終えられてしまい、定義の三分の一がそこで落ちます。
もう一つ崩れやすい線があります。三語はどれも「症」が付いていない症状名です。症状としての不眠と、疾患としての不眠症は別のもので、日本語の記事ではここが日常的に混ざります。「睡眠障害」も不眠の同義語ではありません。 あれは上位のカテゴリ名で、睡眠時無呼吸も概日リズムの障害も restless legs も全部その下に入ります。自分の状態を「睡眠障害」と呼んでいるかぎり、どの治療の話なのかは決まりません。
そして早朝覚醒には、日本語圏に特有の読み方がついています。「早朝覚醒はうつのサイン」。一般向けの記事でこれほど流通している一文は他にあまりなく、しかも半分は当たっています。うつ病で早朝に目が覚める形はよく知られていて、見逃してよいものではありません。外したいのは残りの半分です。加齢とともに体内時計は前にずれ、眠りの始まりと終わりがそろって早くなります。 早く目が覚めて、しかもその夜に満足していて、日中も困っていないなら、それは病気の形ではありません。分かれ目は覚める時刻ではなく、その後の日中と、気分のほうにあります。
翌日の代償が定義に入っている理由
落ちやすい条項をもう一度、別の角度から。夜についての訴えがあって、日中に何の帰結も無いなら、定義は満たしません。
六時間以下で目が覚め、そのまま調子がよく、治すものが何も無い人は実在します。逆に、合計では七時間半眠っていて、それが細切れで、朝から回復していなくて、午後には手元が狂っている人は定義をゆったり満たします。疾患を持っているのは後者です。 そして日本語で前者を指すのに使われる「ショートスリーパー」という語は、たいてい願望混じりの自称なので、ここでは当てになりません。
日中の側は、不眠症が「夜の病気」ではなく一日中の状態として記述される理由でもあります。疲労、いらだち、一本の筋を保てない頭、そして来る夜への特有の身構え。この並びに入っていないものに注意してください。眠気です。 慢性の不眠症を抱えている人は、昼間に眠らせようとすると健康な人より眠りにくいことが測られています。疲れきっている人に予測される向きと逆で、これは問題が不足ではなく過覚醒の側にあるという、いちばん良い手がかりです。その状態そのものは疲れているのに眠れないにあります。
「眠れていない」と「不眠症」は別の問題です
どちらも疲れた人を作り、それ以外はほとんど違います。
診断基準には読み飛ばしやすい条件が入っています。その困りごとが、眠る機会は十分にあったうえで起きていること。これは技術的な但し書きではなく、不眠症と睡眠不足を分けている線です。そして疲れきった人の大きな一群をここで除外します。新生児のいる親、夜勤の看護師、五時間しか割り当てていない学生、通勤が七時間を不可能にしている人。この人たちの眠りは壊れていません。 量を渡されていないだけで、それは別の問題で、別の直し方をします。睡眠負債のほうです。
ここから逆説的な部分に入ります。不眠症はしばしば、床にいる時間が平均より長い状態と一緒に来ます。眠れていない人は、眠りを増やすには機会を増やすのが筋だと考えます。だから十時に横になり、十二時まで起きていて、失った分を取り戻すために八時まで床にいます。機会はいま九時間か十時間に広がり、中身の睡眠は増えていないので、増えた分は床の上で起きている時間になります。 そしてそれが、寝床が「起きている場所」の合図に変わる唯一の条件です。
だから第一選択の治療は、床にいる時間を広げるのではなく狭めます。 自力でここに到達する人はほとんどいません。理屈は不眠症の認知行動療法にあります。
週に三晩、三か月
閾値は事務的に見えて、それぞれ仕事をしています。
週に三晩。 月に二晩の酷い夜は、生活です。たいていの週に出てくるものは、パターンです。
三か月。 死別、診断、引っ越し、締め切りのあとの短い悪い期間はきわめてありふれていて、多くは放っておいても収まります。基準の側にも短期用の枠が別に用意されていて、だから三か月という線は「反応が状態に変わった地点」を指しているのであって、「ここまでは気にしてはいけない」という線ではありません。
三か月を単なる待機期間より意味のあるものにしているのは、この分野でいちばん良い考えで、しかも四十年近く前のものです。スピールマンらの整理は、原因を元から持っていた傾向、きっかけになった出来事、そしてそれを続かせている振る舞いの三つに分け、三つが順番に主役を交代すると言います。何かが悪い期間を始める。その悪い期間がごく自然に引き起こす対応が、最初の原因が消えたあとも続かせる仕掛けになります。 床にいる時間を増やす、昼寝を入れる、就寝を早める、朝の予定を諦める、一日中注意を睡眠に向けておく。三か月の時点では、きっかけはもう居ないことがよくあります。だから診察室で「ストレスだったことはもう終わっているんです」という、よくあって、よく人を混乱させる一文が出てきます。
そしてこれが、不眠症の治療がいま何をしているかを変える形で行われ、何が始めたのかを掘る形では行われない理由です。
不眠症はたいてい、別の何かの上に乗っています
慢性の不眠症の多くは別の状態と並んでいて、そちらを見ないままにしておくことが、一年かけて何も動かない最もよくある理由です。
よく一緒にいるもの。不安とうつ。 ここは一方通行ではなく双方向で、まだうつではない人の不眠が、のちのうつの発症を予測することも報告されています。痛み。 入眠を遅らせ、夜中を細切れにします。睡眠時無呼吸。 不眠症と並んで存在する頻度は、どちらかがもう一方の隣で診断される頻度よりずっと高い。restless legs。 動かしたくなる衝動があり、動かすと楽になるという独特の形。更年期とその周りのホルモンの変化。甲状腺などの内分泌の問題。薬。 ステロイド、刺激薬、一部の抗うつ薬、β遮断薬、そして市販の鼻づまりの薬。アルコール。 夜の前半を沈め、後半を壊します。カフェインを、本人が気づかなくなった量か時刻で。
二次性という語について一つ。かつてはこれ全部にその語が使われていて、いまは使われません。別の状態を治療しても睡眠の問題がそのまま残ることが繰り返し観察されたので、併存(comorbid)と呼ぶように変わりました。うつが軽くなって不眠が残る。痛みが管理できて二時の覚醒が続く。その時点では前の節の「続かせている仕掛け」が自分の勢いを持っていて、それ自体を治療する対象になります。
だから、ちゃんとした評価は夜のことだけを訊きません。いびきと、周りが気づくほどの呼吸の止まり、あるいは運転が危ういほどの眠気は無呼吸の側を指していて、スケジュールに手をつける前に見てもらうものです。
日本の睡眠薬をめぐる事情と、定義の側から言えること
この節は英語版にありません。日本語の読者がたどる経路が、英語圏の読者とはっきり違うからです。
不眠を訴えて最初に相談する先は、日本では精神科や睡眠の専門外来ではなく、たいてい近所の内科です。これは悪いことではなく、むしろ届きやすさの話です。ただ、そこで出てくる選択肢の形は決まっています。行動を変える治療は紹介先が要り、処方はその場で終わります。 時間の制約を考えれば当然の帰結で、誰かの手抜きではありません。
ここで定義の側から言えることが一点あります。これが詞条の持ち分です。薬で眠れている状態は、不眠症が消えた状態ではありません。 診断基準は夜の訴えと日中の代償を見ますが、前の節の「続かせている仕掛け」は、薬で夜が静かになっている間も手つかずで残ります。床にいる時間は広いままで、寝床と覚醒の結びつきもそのままです。だから中断したときに戻ってくる形があり、それは「薬が効いていた証拠」でもあり、同時に「下の層を触っていなかった証拠」でもあります。どちらに読むかではなく、両方が同時に正しいと読むのが正確です。
意外に知られていないのは、制度の側がすでにこれを問題として扱っていることです。処方が要るかどうかは医師が決めることで、この頁が代われるものではありません。ただ、読者が知らされていない情報が三つあります。
- 2013年に、「睡眠薬の適正な使用と休薬のための診療ガイドライン」が厚生労働科学研究と日本睡眠学会のワーキンググループから出ています。題名に「休薬」が入っているのが要点で、出口を設計の一部として書いた国内の文書です。
- ベンゾジアゼピン受容体作動薬の添付文書は2017年に注意が強化され、漫然とした継続投与を避けることが明記されました。
- 診療報酬には、抗不安薬や睡眠薬を同時に何種類も出した場合の減算が入っています。多剤と長期化を抑える向きの設計が、報酬の側にすでにある。
これをどう使うか。診察室で「やめ方の話も含めて相談したい」と言うのは、わがままな要求ではなく、国内のガイドラインが前提にしている話の進め方です。 そして自己判断で急にやめるのは、ここでいちばんやってはいけないことです。減らし方は処方した人が決めます。この頁が勧められるのは一つだけで、薬の話と、床にいる時間と寝床の使い方の話を、別々の話として扱うことです。片方が片方の代わりになっていないか確かめるために、記録を持っていくのが効きます。
自分の場合をどう読むか
- まず三つの成分を分ける。 夜のどこが壊れているのか、そして日中が代償を払っているのか。 情報の大半はそこにあります。
- 目覚ましの無い朝の問いを正直に通す。 起きる必要が何も無いとき、眠りは来て、続くか。来るなら時刻の問題のほうです。来ないなら不眠症の形です。この分岐は不眠症なのか、ただの夜型なのかにあります。
- 機会の幅を数える。 床に十時間いて六時間眠っているのと、六時間いて六時間眠っているのは別の状況で、前者だけが、いちばん自然に思える対処で悪化します。
- 二週間、書く。 就寝時刻、起床時刻、寝つくまでの時間、夜中に起きていた時間、昼寝、酒、そして翌日を一行。この領域の診断は全部その一枚から作られます。受診の予定がまだ無くてもやる価値があるのは、これだけです。
- 睡眠衛生の一覧から始めない。 あれは本当の治療のいちばん弱い成分で、しょっちゅう全体と間違われます。何に効く一覧なのかは睡眠衛生にあります。
不眠症チェックは、入眠・睡眠維持・日中の代償を合計せずに別々に出します。形のほうが意味を運んでいるからです。診断ではなく、スクリーニング寄りの読み取りです。
範囲の話。悪い二週間は疾患ではなく、治すものでもありません。週に三晩以上が三か月以上続いていて、日中が目に見えて代償を払っているなら、それは慢性不眠症として認識されている形で、第一選択の治療は薬ではなく、長い目で見ると薬より成績が良い方法です。
同時に、不眠症には医学的な重みもあります。うつの独立した危険因子であることが分かっていて、ここに居たくない気持ちが出てきている人の眠れなさは、様子を見るものではなく、いま助けを求めるものです。死にたい気持ちがあるなら #いのちSOS(0120-061-338)。何から話せばいいかまだ決まっていない段階なら、決めていない人を受ける窓口としてよりそいホットライン(0120-279-338)があります。
受診する場合、その十分を短くする一文はこれです。睡眠衛生はもう一通りやった、認知行動療法のほうを名前で相談したい。
出典
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- · American Psychiatric Association (2013). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (5th ed.).
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- · 三島和夫ほか (2013). 睡眠薬の適正な使用と休薬のための診療ガイドライン. 厚生労働科学研究・日本睡眠学会ワーキンググループ.