フロー(没入状態)
チクセントミハイのサンプルが実際に報告したこと、九つの次元のうち大半が条件ではなく症状である理由、メタ分析が支えている三つの条件、そして余暇より仕事のほうがフローが多いという所見。
ウェルビーイングの科学
フローとは、作業のほうが勝手に進んでいるように感じられる状態のことです。 注意が課題に絞られ、頭の中の実況が止まり、二時間が一時間として過ぎます。
ミハイ・チクセントミハイが1970年代に名付けました。外からの報酬なしに難しいことをやり続ける人たち —— 登攀者、チェス指し、外科医、作曲家 —— に、何が自分を留めているのかを訊いて回った結果です。全員がほとんど同じ言葉で同じ状態を説明し、何人かが同じ比喩に手を伸ばしました。流れに運ばれているようだ。
概念は堅く、背後の研究も本物です。その後に起きたのは、体験の記述が体験を作る手順として包装し直された、ということで、フローについての助言のほとんどは、その二つのあいだの隙間に住んでいます。
九つの次元と、その正しい読み方
チクセントミハイの記述は、この状態の特徴を九つ挙げます。挑戦と能力の釣り合い、行為と意識の融合、明確な目標、即時のフィードバック、課題への集中、統制感、自意識の消失、時間感覚の変容、そしてその活動自体に価値があること。
たいてい省かれるのはここです。このうち大半は、フローが何を引き起こすかではなく、フローがどう感じられるかの記述です。 自意識の消失は、意図してできることではありません —— すでに自己監視をやめた人の報告です。時間感覚の変容は帰結です。中村とチクセントミハイ自身の整理も条件と体験を分けていて、動かせるのは前者だけ —— 能力に見合った難度、明確な目標、進みながら読めるフィードバック。
フォン、ザレスキ、リーチは2015年に28研究を集めて挑戦と能力の釣り合いを検討しました。釣り合いとフローの関係は中程度で持ちこたえ、明確な目標や統制感と並んで比較的頑健な寄与要因として出ました。この論文から持って帰る価値のある細部が二つあります。相関は仕事と教育の場面のほうが弱く、そしてその場のフローを測ったときのほうが、一般的な傾向として測ったときより弱い。反証ではありません。人が最も応用したがっている場所で、効果はいちばん小さく、いちばん濁っているという警告です。
日本語でも測定の側の蓄積があります。石村郁夫が2014年にまとめた一連の研究は、フロー体験を個人の特性として測る道具を日本語で作り、性格特性や心理的健康との関係を検討しています。日本語で「フロー」を測ろうとした人がいるという事実は、次の節の話にとって重要です。
いちばん効いている条件はどれか
一つだけ持ち帰るなら、釣り合いです。
フローは、課題の難度が現在の能力よりわずかに上にある狭い帯の上に乗ります。帯の下は退屈 —— 課題が自分より下にあり、注意は他にやることを探して出ていきます。帯の上は不安 —— 課題が自分より上にあり、注意は作業ではなく「失敗している」という事実のほうに行きます。
これがフローの腹立たしい性質を説明します。呼んでも戻ってきません。帯のほうが動くからです。 能力が低かった時期にフローをくれた仕事は、一年後には退屈させます。同じ仕事が、責任の水準が変わると不安にさせます。この状態は活動の性質ではなく、活動と「今日のあなた」の適合の性質です。 だから、フローに入りやすい作業の一覧を誰かが渡してくれる、ということは起こりません。
したがって実務的なてこは意欲ではなく、較正です。難しすぎる課題は、自分の少し上に来るまで小さくする。易しすぎる課題は、制約を足して難しくする —— 締め切りを詰める、基準を上げる、いつもの補助輪を外して一度やる。どちらも意志力ではなく帯のほうを動かしています。
日本語には、結果を指す語だけが揃っている
ここから英語版に対応する節がありません。英語は flow という新語を必要としましたが、日本語は同じ状態を指す語をすでにいくつも持っていました。
無我夢中。我を忘れる。没頭。三昧。集中しきっている。そして「ゾーンに入る」。最後のものはスポーツとその周辺の物語から来ていて、検索量でいえば「フロー状態」より大きい語です。
語が豊富なのは、ふつうは良いことです。ここでは一つだけ問題があります。これらの語は全部、起きたかどうかを言う語で、どれ一つ条件を指していません。
「無我夢中だった」は事後の報告です。「ゾーンに入った」も事後の報告で、しかも入る/入らないの二値として語られ、多くの場合「今日は入った」という運の報告として使われます。三昧も没頭も同じで、難度をどう調整したかを指す語は、この一群のどこにもありません。
すると何が起きるか。チクセントミハイの議論のうち唯一動かせる部品 —— 挑戦と能力の釣り合いを自分で動かすこと —— が、日本語に移したときに最初に落ちます。そして落ちた穴には、たいてい別のものが入ります。「集中しろ」です。
これが、日本語圏でフローの話が精神論と合流しやすい経路です。状態の語しか無いところに「入れ」と言えば、命じられているのは状態そのもので、条件ではありません。状態は命令に従いません。 お金と安心の項で書いた語彙の非対称と同じ形で、片側にだけ語が揃っていると、無い側の作業が毎回ゼロから始まります。
この節の実用は一行です。「集中できなかった」を、二つの質問に置き換えてください。 「その作業は、いまの自分に対して難しすぎたか、易しすぎたか」。そして「終わったかどうかを、途中で知る方法はあったか」。答えの出る問いはこちらだけです。
誰も引用しない所見 —— フローは余暇より仕事に多い
1989年、チクセントミハイとルフェーブルは、アメリカの働く人たちに無作為な時刻にポケットベルを鳴らして、いま何をしていて、どう感じているかを訊きました。結果は、働く側にとっても研究者にとっても予想外でした。
フローは、自由時間より仕事中のほうが頻繁に起きていました。 仕事時間の報告のおよそ半分がフローの特徴を備えていたのに対し、余暇の報告はずっと少なく、代わりにテレビの前の無感動が大きな部分を占めていました。そして同じ人たちに「いまどこにいたいか」と訊くと、働いていたくないと答えました。
チクセントミハイはこれを仕事のパラドックスと呼びました。文献全体でいちばん使える所見で、朝のルーティンについての記事にはいちばん載らない所見です。何も売らないからです。仕事のほうには条件が最初から入っています —— 目標、フィードバック、難度、技能の必要。余暇にはたいてい入っていません。仕事に無いのは「自分で選んだ」という感覚のほうで、それが同じ時間の記憶され方を大きく変えます。この落差そのものを扱っているのが自己決定理論の項です。
日本語の読者が自分の一日に当てるための足場も、統計の側にあります。総務省の令和3年社会生活基本調査では、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌に使う時間が、生活時間の中でまとまった塊として出てきます —— 都道府県によっては一日二時間半に届く。この塊は、条件が一つも入っていない時間です。 目標も、フィードバックも、能力に見合った難度もない。だから、ここが楽しくないのは意志の問題ではありません。設計の問題です。
そこから二つ出ます。没入できる時間を自由時間に期待して待っているなら、週の中で最も可能性の低い部分を待っています。 そしてもっとフローが欲しいなら、いちばん安く見つかる場所はすでに就いている仕事の中です。それを方法にしたのがジョブ・クラフティングです。
疑ってよいもの
フローは十年以上にわたって強く売られてきたので、いくつかの主張は眉を上げる価値があります。
正確な所要時間。 「フローに入るには23分かかる」「フローは90分続く」といった数字が、知見として提示されます。研究にはありません。 立ち上がりは人、課題、日によって変わり、一般的な数値を確立した研究は存在しません。
名指しの脳内物質。 一般向けの記述はしばしば、フロー中に放出される神経伝達物質の配合を並べます。フローの神経科学は現在進行形で未確定の領域で、自信たっぷりの化学物質目録は測定ではなく販促です。
生産性の目標としてのフロー。 フローはそれ自体が報酬なので、指標としては筋が悪い。チクセントミハイは最初から、この状態が条件を満たすものなら何にでも取り付くと書いています —— 賭博を含み、どこにも行かない仕事を含む。没入は、その作業がやる価値があったことの証拠ではありません。 状態を追う人は、大事なもののほうではなく、いちばん確実に状態をくれるもののほうへ流れます。
性格の判定としてのフロー。 入りにくいのは、たいてい適合の問題です —— 難度の見積もりが外れている、目標が曖昧、フィードバックが六週間先。どの作業でも、どの場面でも集中が難しいなら、それは別の問いで、ADHD傾向診断のほうが正直な出発点です(指標であって診断ではない、という但し書きは毎回つきます)。そもそも没入する価値があると感じられないのが難所なら、内発的動機づけと仕事とアイデンティティのほうが正しい入口です。
出典
- · Csikszentmihalyi, M. (1975). Beyond Boredom and Anxiety. Jossey-Bass.
- · Csikszentmihalyi, M., LeFevre, J. (1989). Optimal experience in work and leisure. Journal of Personality and Social Psychology.
- · Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience. Harper & Row.
- · Nakamura, J., Csikszentmihalyi, M. (2002). The concept of flow. In C. R. Snyder & S. J. Lopez (Eds.), Handbook of Positive Psychology. Oxford University Press.
- · Fong, C. J., Zaleski, D. J., Leach, J. K. (2015). The challenge-skill balance and antecedents of flow: a meta-analytic investigation. The Journal of Positive Psychology.
- · チクセントミハイ, M. (1996). フロー体験 喜びの現象学. 今村浩明 訳. 世界思想社.
- · 石村郁夫 (2014). フロー体験の促進要因と肯定的機能に関する心理学的研究. 風間書房.
- · 総務省統計局. 令和3年社会生活基本調査 生活時間及び生活行動に関する結果.