一緒にいると落ち着く(共調整)
特定の人といると鎮まるのはなぜか。自己制御が共調整から育つという証拠と、それを必要とすることが弱さでも共依存でもない理由。日本語で「甘え」と呼ばれてきたものの扱いも含めて。
ウェルビーイングの科学
共調整は、ある神経系がもう一つの神経系に対して持つ効果のことです。張りつめた状態でどこかに着いて、特定の相手と二十分座って、別の状態で帰る —— 何も解決していないのに、そしてたいていその件について大して話してもいないのに。
たいていの人はこれに気づいていて、性格の話として片づけています。落ち着く友人もいれば、そうでない友人もいる、と。研究の扱いはもっと基礎的です。人間の感情制御は、他人がときどき手伝ってくれる単独の能力として作られていません。 二人がかりの過程として始まり、単独版はそれを何年も練習した後に残るもののほうです。
証拠はどこから来ているか
まず乳児。 トロニックの乳児の情動的コミュニケーション研究、とくに静止顔(still-face)手続きは、二人がかりの構造を目に見えるようにしました。赤ん坊と養育者は、合図・応答・修復のループを連続的に回しています。養育者の顔が無表情になって応答が止まると、赤ん坊の状態は数秒で崩れます —— まず呼び戻そうとする努力、次に苦痛、そして引きこもり。赤ん坊の制御が弱いのではありません。分散していて、その半分がいま取り除かれたのです。
大人でも同じです。 コーアン、シェーファー、デイヴィッドソンは、既婚女性を装置に入れて弱い電気ショックの脅威下に置き、見知らぬ人の手を握る、夫の手を握る、何も握らない、の三条件を比べました。脅威に関連する神経活動はどちらの手を握る条件でも下がり、夫のときにいちばん下がりました。 そして効果の大きさは、自己報告された夫婦関係の質と対応していました。脅威は変わっていません。変わったのは、部屋に誰がいたかだけです。
関係そのものが制御の仕組みです。 スバーラとハザンの総合は、成人の愛着が主にこの経路で働くと論じています —— パートナーは互いの生理的な制御の一部になり、だから別離と死別が睡眠・食欲・免疫指標といった具体的な身体の乱れを生む。仕事をしていた何かが、仕事をやめたからです。 バトラーとランドールの総説は日常版を足しています。カップルの感情状態は連続的に互いを追っていて、二人が反応し合っているというより一つの結合したシステムに見える、と。
仕組みについて一言。 一般向けの共調整の説明はポリヴェーガル理論に大きく寄りかかっていますが、あの理論は生理学的な支持が弱い。ここで書いた効果はそれに依存していません —— 手を握る実験も愛着の文献も、単独で立ちます。仕組みに争いがある場合はそう書く、というのは闘争・逃走・凍りつき・迎合の項が凍りつき反応についてやっているのと同じ扱いです。
実際にはどう見えるか
共調整はほとんど非言語で、見ていてもまったく地味です。
問題を解決しようとせず、そこにいるだけでなぜか音量が下がる友人。四秒間、背中に置かれた手。危機のときの落ち着きが伝染することが判明する同僚 —— そして逆向きに不安が同じくらい伝染する同僚。伝わり方は選べません。
負の側も正の側と同じくらい実在します。脱調整も一緒に伝わります。 事を大きくするパートナーは、あなたにとっても事を大きくしやすくします。一人がずっと身構えている家では、二人目も身構えるようになる。バトラーとランドールの総説は両方向を扱っていて、二つめのほうは説明のつかなかった疲れをかなり説明します。
実務的な注意を二つ。共調整は気が散っていると劣化します —— スマホを見ている相手との会話の後で、かえって悪くなっているのはそのためです。そして同意を必要としません。 論点で譲っていない相手に鎮められることは極めてよくあり、仲直りと修復を「勝つこと」と分けて考えるべき理由がまた一つ増えます。
日本語の場合:「甘え」と「共依存」という二つの語
ここが英語版に無い部分です。日本語の読者は、この話題に二つの語を先に持って到着します。そして二つとも足を引っ張ります。
一つめ、甘え。 土居健郎が1971年に書いたときの甘えは、人に頼れることについての概念語でした。つまり日本語には、共調整という語が心理学に定着するより前から、「依存できることは正常であり、むしろ関係の基盤だ」という理論が既にあったことになります。この項目にとって、これ以上ちょうどいい概念語はありません。
問題は、日常語のほうが別物になったことです。不安のスクリーニングとセルフ・コンパッションの項に書いたとおり、「それは甘えだ」はいま、弱さと自己管理の失敗を指す評価語です。日本語はこの主題について、いちばん良い概念といちばん悪い語を、同じ語で持っています。 誰かに落ち着かせてもらいたいと思った瞬間に出てくるのは、たいてい概念のほうではありません。
二つめ、共依存。 これは1990年代に、アメリカのアディクション臨床と家族臨床から翻訳語として入ってきた語です。もともとはアルコール依存症の配偶者の、特定の関係構造を指していました。日常語としては、「近すぎる関係」全般に貼れる札として広がりました。
ここは正確に書く価値があります。日本語圏で共依存という語を広めた臨床家自身が、その使われ方に批判的です。 信田さよ子は、この語が愛や献身の名のもとに起きている支配を指すために要ると同時に、ケアする側を病人にする方向に使われることを問題にしています。「私、共依存かも」と自分で言う人の多くは、支配の構造にいるのではなく、単に誰かを気にかけているだけです。
つまり日本語での問いはこうなります。「頼っているかどうか」ではありません。誰も彼も頼っています。 問いは次の節にあります。
必要とすることと、依存していることは別です
ここが自助努力版のいちばん外しているところで、外し方に特徴があります —— 誰かに落ち着かせてほしいという願いを、症状として扱う。
共調整は正常なほうです。 大人は一緒に制御します。完全に自己充足した神経系というのは、多くの人が届かない理想ではなく、存在しないものです。
健全さを決めるのは、不在ではなく可用性です。 役に立つ問いは「自分は誰かを必要としているか」ではありません。誰もいないときに多少なりとも自分を鎮められるか、そして相手のほうは応じられないでいる自由があるか。共依存と相互依存がその線の長い版で、「自分は依存的すぎないか」と自己監視するより、こちらの二問のほうがずっとよく効きます。
一方通行の共調整には名前があり、それは労働です。 いつも全員を落ち着かせる側にいて、自分に対して同じ役をしてくれる人がいない —— 見分けのつく、特定の疲れ方です。一方通行の関係と友情、そして十分に長く続いた場合は心の疲れ(情緒的消耗感)を。
回避は自己充足ではありません。 既定で一人で制御している人は、たいてい上手いのではありません。二人がかりの版はあてにならない、と早い時期に学習したシステムを運用しているだけです。どこから来たかは愛着理論に、いまどちらに傾いているかは愛着スタイル診断にあります。
「察してもらう」でしか回っていない場合
日本語でこの話をするときに、もう一つ足しておくべきことがあります。共調整の既定の要求形が、非言語です。
察してもらう。言わなくても分かってくれる。空気で伝える。これらは本物の共調整の形で、うまくいっているときは実際に美しく機能します。相手の顔色が変わったことに気づいて、何も聞かずにお茶を淹れる —— 説明を要求しないぶん、言語版より速い。
問題は、それしか経路が無いときに起きます。
察してもらう方式は、相手の読み取り精度に全部を預けます。読み取れなかった場合、起きるのは「伝わらなかった」ではなく「察してくれなかった」で、これは相手の人格についての判定です。しかも本人は何も要求していないので、要求が満たされなかったことを自分でも認識できません。 残るのは理由の分からない失望だけになります。
そしてもう一つ。「ちょっと話を聞いてほしい」と言うことは、日本語ではほんの少し重い。頼むこと自体が相手に負担をかける行為として意識されるからで、これは作法の問題であって性格の問題ではありません。だから英語版の助言「ちょっと座っていてと頼め」は、日本語ではもう一段階が必要になります ——
要求の大きさを先に言う。 「十分だけ、解決しなくていいから聞いてもらっていい?」。時間と、求めていないこと(解決)を先に渡すと、相手は引き受けやすくなります。これは遠慮ではなく、相手が応じられるようにするための設計です。
どう使うか
- 自分の調整役が誰かを知っておく。 たいていの人は二、三人挙げられます。そしてたいていの人は、いちばん必要なときに連絡しません。 必要としている状態そのものが、連絡することを迷惑に感じさせるからです。
- 正しいものを頼む。 「ちょっとそばにいて」は聞き入れられる要求です。「なんとかして」はたいてい聞き入れられず、このずれが失敗した慰めの相当数の背景にあります。名指しの仕方は相手に求めているものに。
- 落ち着けるのが先、解決は後。 自分が反対側にいるときは、先に鎮め、後で解く。そして鎮まるのは、自分が思うより時間がかかると見込んでおく。
- 逆向きに伝わっているときに気づく。 ある相手との時間の後で、行く前より一貫して身構えて帰っているなら、それはシステムについての情報で、どちらかの人格についての判定ではありません。
- 単独の経路も開けておく。 人を必要とすることが欠点だからではありません。可用性は保証されていないからで、調整役が一人しかいない人は単一障害点を抱えています。
線をはっきり書いておきます。共調整はありふれた人間の過程で、治療ではありませんし、このページは決して鎮まらない神経系についての手当てを記述してはいません。ほとんどの時間を身構えて過ごしているなら、あるいは誰の存在も自分に届かないなら、それは専門家に持っていく話です。その状態が内側からどう見えるかは人の顔色をうかがう(過度の警戒)のほうにあります。
出典
- · Tronick, E. Z. (1989). Emotions and emotional communication in infants. American Psychologist.
- · Coan, J. A., Schaefer, H. S., Davidson, R. J. (2006). Lending a hand: Social regulation of the neural response to threat. Psychological Science.
- · Sbarra, D. A., Hazan, C. (2008). Coregulation, dysregulation, self-regulation: An integrative analysis and empirical agenda for the study of adult attachment, separation, loss, and recovery. Personality and Social Psychology Review.
- · Butler, E. A., Randall, A. K. (2013). Emotional coregulation in close relationships. Emotion Review.
- · 土居健郎 (1971). 『「甘え」の構造』. 弘文堂.
- · 信田さよ子 (2009). 『苦しいけれど、離れられない —— 共依存・からめとる愛』. 朝日新聞出版.