共依存と相互依存
関係が一人分のどれだけを吸い込むかを言い分けた三つの語。どこから来た言葉か、健康なほうはどれか、どう見分けるか。
関係の科学
「共依存」「纏綿(てんめん)」「相互依存」は、一本の同じ軸を三つの点で言い分けた言葉です。軸は、関係が一人分のどれだけを吸い込むか。
三つのうち定義がはっきりしているのは真ん中だけです。纏綿は家族療法の術語で、それなりに厳密。共依存は1980年代のアルコール依存の治療現場から出て、そこから広がりすぎ、研究者が定義をそろえようとするたびに「使う人ごとに別のものを指している」という結論に戻ってきます。相互依存は健康なほうを指す語で、そして日本語では一番よく誤解される語です。
「共依存」はどこから来て、日本で何になったか
もとは共アルコール依存症(co-alcoholic)—— 依存症の人のパートナーで、自分の生活のほうが相手の管理を軸に組み直されてしまった人を指す語でした。1980年代のうちに「与えすぎる関係」全般へ広がり、臨床の診断名になったことは一度もありません。
日本に入ってきた経路が英語圏と違います。広まったのは1990年代、アダルトチルドレン(AC)という語と一緒でした。そのため日本語圏では、共依存はまず親子、とくに母娘の話として理解されています。英語圏でいま中心にあるのはパートナーとアディクションの文脈で、同じ一語の下にある光景がかなり違う。親の側は毒親に書いてあります。
語が指しているものの芯は、それでも具体的です。
- 必要とされることでしか自分の価値が立たない
- 自分が何を必要としているか分からない、分かっても言えない
- もう一人の大人の感情と、その結果までを引き受ける
- 友人が同じ扱いを受けていたら離れなよと言うであろう状態に留まる
- 出している助けが、問題を解決せずに維持する側に働いている
注意が二つ。この語は、記述として使われるより非難として使われることのほうが多い。 難しい状況で人を気にかけているだけの人に向けられるのが珍しくありません。もう一つ、これは性格ではなく関係のパターンです。日本語には「共依存体質」という言い方があって人格の側に貼りやすいのですが、同じ人が別の相手とは全然そうならない、というのが普通の観察です。
纏綿(てんめん) —— 家族療法のほうの言葉
ミニューチンの構造派家族療法から来ていて、家族の中の境界が透けすぎて、一人ひとりが全体から区別できなくなっている状態を指します。反対の端は「遊離」。どちらも系を指す語なので、一人の振る舞いの名前ではありません。
見え方はこうです。一人の機嫌がそのまま全員の機嫌になる。閉じた扉が拒絶として読まれる。意見の相違が、違いではなく裏切りとして体験される。互いの代弁が普通で、本当に自分の意見の切れ目が分からなくなっている。
この枠組みでの反対語は独立ではなく自己分化(ボーウェン)—— 人と情緒的につながったまま、自分の反応を自分のものとして持てること。通俗版がよく落とす部分を書いておくと、分化の低さは融合としても断絶としても出ます。纏綿から逃げるために家族と縁を切った人は、まだ中にいる人と同じくらい未分化でありうる。
日本語では「仲のいい家族」「一卵性母娘」が価値として語られるので、この状態はそもそも問題の形をしていません。見つけにくさの理由はそこにあります。
「相互依存」は「共依存」の一字違いではない
健康なほうの名前で、日本語ではここで一段余計につまずきます。「依存」という語が依存症の影を引きずるので、健康なほうの名前まで病的に聞こえる。 そのうえ相互依存は自立の反対語として読まれやすい。どちらも違います。
自立は誰も必要としないこと。相互依存は、一人分の輪郭を保ったまま実際に相手に頼り、同じだけ頼られることです。選んであって、双方向で、あとから結び直せる。
フィーニーの研究がこの機構に名前をつけています。依存のパラドックス —— 頼ることをパートナーが安定して支えた人ほど、時間が経つと自立の度合いが上がる。寄りかかれることが、立てることの条件になっている。自律が削られていたのは、支えが不安定だった側の関係のほうでした。獲得安定型が指しているのと同じ地面です。標本は英語圏の成人なので、そこは差し引いて読む必要があります。
日本語には、この地面を病理化せずに指す語が先にありました。土居健郎の「甘え」です。頼ることを前提にして関係を運ぶ作法として記述された語で、英語にはこれ一語に当たるものがない。相互依存は日本語で説明しにくい概念ではなく、名前の付き方だけが不利な概念です。
見え方:
- 必要としていいかを先に判定せずに、必要だと言える
- 相手の不機嫌が、居心地の悪さであって脅威ではない
- それぞれに自分の関係、興味、意見がある
- 助けが両方向に流れていて、どちらも台帳をつけていない
- 離れている時間 —— 相手のいない夜、相手が入っていない交友 —— が合図として読まれない
自分がどこで線を引いているのかは、境界線の側の話でもあります。
どれなのかを分ける問い
一つの問いで三つとも分かれます。近さの量の話ではありません。
声に出して意見が食い違って、それで関係が無傷で残るか。
纏綿した系では、食い違いが系そのものを脅かすので、起きない。共依存的なパターンでは、食い違いが自分の立場を脅かすので、賭けに出ない。相互依存では、食い違いはただの日常です。ときどき気まずく、危険ではない。
一つ目が取りこぼすものを拾う二つ目。離れている間、自分は好みを持った人間として存在しているか。それとも、一緒にいるときだけ再開するのか。
どれも固定した状態ではありません。関係ごとに違い、動きます。たいていは、小さくて言いにくい一つが起きた週のうちに言えるかどうかから動きはじめます。傾いているのが労力の量だけなら、それは一方通行の関係という別の軸の話です。
出典
- · Minuchin, S. (1974). Families and Family Therapy — the source of enmeshment.
- · Bowen, M. (1978). Family Therapy in Clinical Practice — differentiation of self.
- · Dear, G. E., Roberts, C. M., Lange, L. (2005). Defining codependency: a thematic analysis. In Shohov (ed.), Advances in Psychology Research.
- · Feeney, B. C. (2007). The dependency paradox in close relationships. Journal of Personality and Social Psychology.