← ナレッジベース

キャリアにおけるサンクコスト

「もう八年もやってきたのに」が悪い論拠であり、しかし必ずしも間違った論拠ではない理由。実験が示したもの、日本では何が本当に埋没していないのか、そして二つを分ける問い。

ウェルビーイングの科学

「もう八年もやってきたのに」は、キャリアの迷いの中でいちばんよく出る一文で、変なことをしています。過去を、未来についての証拠として差し出しています。

経済学の上では、これはまったく重みを持ちません。取り戻せない費用は、次に何をすべきかと無関係で、勘定に入るのはこれからの費用と便益だけです。心理の上では巨大な重みを持ち、その理由についての研究は堅い。

ただし、雑な側の助言 ——「サンクコストは無視しなさい、年数は消えたのだから」—— も、キャリアに当てはめると間違いです。 観劇の前売り券と違って、八年の仕事はまだ資産であるものを後に残します。必要なのは、その二つを見分ける技能で、この項はそのために書かれています。

実験は何を示したのか

ハル・アークスとキャサリン・ブルーマーが1985年に、演劇のシーズン券できれいに示しました。無作為に割引を受けた購入者は、定価で買った人より観に行く回数が少なかった。 演目は同一で、違いは「すでにいくら払ったか」だけ。それは今夜の芝居を観る価値があるかどうかに、論理的には影響できません。影響しました。

他の場面も同じ構造です。人は予算の大部分をすでに投じたという理由で、見込みのない企画を続け、同じ企画でも投じていなければやめる。この型は頑健で、再現も容易です。

機構としては、ふつう二つ挙がります。損失回避 —— カーネマンとトヴェルスキーのプロスペクト理論。ポジションを閉じると損失が現実になり確定するが、続けていれば未確定のまま、好転する可能性も残ります。 そして自己正当化 —— やめることは、以前の判断が誤りだったという公の表明になるので、続けることが判断ではなく判断者を守ります。

バリー・スタウの1976年の研究 —— 泥沼に膝まで —— が二つ目を有名にしました。研究資金を配分するビジネススクールの学生は、成績の悪かった部門に対して、最初の配分を自分でやった場合のほうが、他人がやった場合より多く追加投資しました。悪い金の後に良い金を投げることを予測したのは、以前の選択の作者であったことでした。スリーズマンらは2012年に数十年ぶんをメタ分析し、規定因が識別可能な家族 —— 意思決定者、案件、社会的場面、状況 —— に分かれることを示しています。エスカレーションが最も強く出るのは、アイデンティティと可視性が関わっているときで、それはまさに、自分のキャリアについて考えているときの位置です。

本当に埋没しているのはどれか

ここが、サンクコストの助言でいちばん飛ばされる訂正です。

本当に埋没しているもの。時間。学費。就かなかった役割の機会費用。そして、その選択の周りに作った自己像。 どれも次に何をしても戻らず、どれも続ける論拠になりません。

埋没していないのに、急いで合理的になろうとする人が埋没に分類してしまうもの。 移転可能な技能 —— いま手元にある資産で、次の一手の採算を変えます。関係と評判 —— 感じられるより持ち運びやすく、楽観論者が思うほどには持ち運べません。実際に門を開ける資格 —— 免許や国家資格が、本当に閉じている扉を開ける場合。そして領域知識 —— 稼いだ場所より、一歩横で高く売れることがよくあります。

だから問いは「八年を無視すべきか」ではありません。「八年のうち、どの部分がまだ貸借対照表に載っていて、それは自分の行きたい方向を指しているか」です。医師が医療政策に移るのは、十年を捨てているのではなく展開している。医師が造園に移るのは捨てていて、それでも正しい判断でありうる —— ただ、それは言い換えではなく正直な選択です。

確実に悪い推論は純粋形です。「続けてきたから続けなければならない。」 見分けの印は、その論拠が未来にある便益を一つも名指さないことです。

日本では、年数の一部が本当に資産になっている

ここから英語版に対応する節がありません。制度が「年数そのもの」に値段をつけているからです。

英語版の一覧 —— 技能、関係、資格、知識 —— は、どれも本人に付いてくる資産でした。日本の雇用には、それに加えて勤続年数に直接ぶら下がっている金額があります。

いちばんはっきりしているのは税制です。退職金にかかる退職所得控除は、勤続20年以下の部分が1年あたり40万円、20年を超えた部分が1年あたり70万円として計算されます(国税庁)。同じ一年でも、21年目の一年は1年目の一年より控除枠を七割多く積みます。退職金の算定そのものが勤続年数で大きく変わる制度を持つ会社なら、その上にさらに乗ります。

つまり日本語圏では、「もったいない」の一部は誤謬ではなく、正しい会計です。

これは残る理由として使ってください、という段落ではありません。逆です。 正しい会計である部分は、感情から取り出して、金額として扱えます。 取り出すと二つのことが起きます。

一つ、量が分かります。 漠然と重い「これまで」が、いくらの話なのかが出る。多くの場合、想像より小さいか、想像より大きいかのどちらかで、どちらであっても、分かったほうが決めやすい。

二つ、残りが何なのかが分かります。 金額を引いた後にまだ「もったいない」が残るなら、残っているのはお金ではありません。 自己正当化か、観客か、前の節で書いた自己像です。これは会計では扱えない三つで、しかも会計と混ざっているあいだは、どれも検討されません。

「いくらあれば安心か」を「何が起きたら困るのか」に置き換える、という同じ形の作業を、お金と安心の項でも書きました。漠然としたものは、大きいのではなく輪郭が無いだけのことがよくあります。

「石の上にも三年」は、何を記述しているのか

日本語には、この判断に掛かる規範が一つ、短い形で用意されています。石の上にも三年。

同じ「三年」について、実測もあります。厚生労働省の新規学卒就職者の離職状況では、大学卒の就職後3年以内の離職率が三割を超える水準で推移しています。令和4年3月卒業者では33.8%でした。

二つを並べると、規範が何をしているかが見えます。規範は三年を指定し、実測では三人に一人がその手前で出ています。 つまり「三年は続けるもの」は、多数派の行動の記述ではありません。 記述でないものが日常語として強く残っているとき、それはたいてい別の仕事をしています —— この場合は、辞めることの社会的な費用を高く保つ、という仕事です。

これは規範が間違っているという意味ではありません。英語版が書いているとおり、続けることが正しい場合は実在します。 ほとんどの経歴には、仕事が難しくて能力がまだ組み上がっていない、二年目から五年目あたりの陰鬱な区間があります。そのときの根拠は「たくさん投資した」ではなく、「曲線がまだ動いている」です。能力の谷を、間違った職業だと取り違えるのは、逆方向の、そして高くつく誤りです。

言いたいのはもっと狭いことです。三年という数字を、自分の曲線の話として使っているのか、周りの目の話として使っているのかを、自分で区別してください。 前者なら根拠です。後者なら、それは次の節でいう「観客」で、観客は実在しますが、曲線の代わりにはなりません。 辞めるかどうかの分岐そのものを扱っている記事としては、「積極的な退職」を選ぶべきでしょうかがあります。

キャリアが難所である理由

三つの特徴が、実験室版より事態を悪くします。

意思決定者が作者です。 スタウの中心的所見。自分の進学先を選んだのは他の誰でもなく、やめることは何年も語ってきた物語を改訂することを意味します —— 学費を払った人たちに対しても、というのが二つ目の特徴です。

ただし日本語圏では、この前提が少し弱くなります。新卒一括採用の下では、最初の選択は職業経験がほぼ無い時点で行われています。 作者ではあっても、情報を持っていた作者ではありません。 この前提については職業興味の項が一節を割いているので、ここでは繰り返しません。実務的な含意だけ書きます。十年前の自分の判断を守る義理は、その判断が何を知った上でのものだったかで決まります。

観客が実在します。 エスカレーションは観察下で強まります。そして日本語圏では、観客が英語圏より大きく、構造化されています —— 親、配偶者、同期、大学、そしてあなたを分類し終えた業界の知り合い。目に見える方向転換の費用は想像ではありませんし、無いふりをしても誰の役にも立ちません。

アイデンティティがポジションの内側にあります。 これが、失敗した投資より遥かに難しい理由です。その進路自分である場合、降りることは配分の変更ではなく自己の消去として読まれます。それが仕事とアイデンティティの項が書いている機械で、コミットメントのエスカレーションとアイデンティティの融合は、二つの語彙を着た同じ問題です。 日本語ではその融合の相手が職業ではなく所属であることが多い、というのは、あちらの項に書きました。

実際に二つを分ける問い

四つ、効く順番で。

他人テスト。 あなたと同じ技能、貯蓄、扶養家族を持つ誰かが、この分野に一切の履歴を持たずに今日現れ、あなたの仕事を提示されたとします。その人は受けますか。 サンクコストだけを取り除き、他は現実のまま残せます。日本語圏では、制度上の資産(前々節の金額)はこの人にも引き継がせて考えてください。そうしないと、正しい会計まで一緒に消してしまいます。

前向きの計算。 ここから三年、続けたときの費用と収益は。代案では。過去に触れずに答えられないなら、残る論拠は仮装したサンクコストです。

曲線の向き。 良くなっているのか、それとも四年間「来年こそ」と言っているのか。谷には底があります。下り坂にはありません。 そして違いは、この十二か月の中に見えていて、その十二か月についての自分の感想の中には見えていません。

名指しできる便益。 続けることで具体的に何が良くなるかを訊く。正直な答えが「間違いだったと認めずに済む」だけなら、それは便益ではなく、誤謬が自分から名乗り出ているところです。

最後に、この話題の一般的な語り口への訂正を一つ。辞めたからといって、その年数が無駄になったわけではありません。 それらの年数は、これが違うと知っている人間を作りました。その情報を、ただで手に入れる人はいません。キャリア価値観診断は自分が実際に何を最適化しているかを読み、それが前向きの計算に必要な入力です。キャリア興味マッチは、判断の後より前に受ける価値があります。そして、その場に留めているのが計算ではなく話を切り出すことへの怖さなら、この項より人間関係の線引きのほうが関係の深い項です。

出典

  • · Arkes, H. R., Blumer, C. (1985). The psychology of sunk cost. Organizational Behavior and Human Decision Processes.
  • · Staw, B. M. (1976). Knee-deep in the big muddy: a study of escalating commitment to a chosen course of action. Organizational Behavior and Human Performance.
  • · Sleesman, D. J., Conlon, D. E., McNamara, G., Miles, J. E. (2012). Cleaning up the big muddy: a meta-analytic review of the determinants of escalation of commitment. Academy of Management Journal.
  • · Brockner, J. (1992). The escalation of commitment to a failing course of action: toward theoretical progress. Academy of Management Review.
  • · Kahneman, D., Tversky, A. (1979). Prospect theory: an analysis of decision under risk. Econometrica.
  • · 厚生労働省. 新規学卒就職者の離職状況.
  • · 国税庁. タックスアンサー No.2732 退職手当等に対する源泉徴収.

ナレッジベースの他の項目